忘れる時、心はそれを受け入れている
ココア、入りました☺︎
ごゆっくりどうぞ。
更新がゆっくりですみません。
立ち寄っていただいて、ありがとうございます。
忘れるとは、一体どういうことなのだろう。
その答えを探していた時、「受け入れる」という言葉が浮かびました。
受け入れる時、心はどういった状態なのでしょうか?
子どもの頃、たわいもないことで喧嘩をすることは日常茶飯事でした。
ところが、次の瞬間には仲直りをして、何事も無かったかのように遊んでいた。
その時、心に何が起こっていたのか。
実は、「いいよ」が起こっていたんです。
先生に言われていました。
”「ごめんね」と言われたら「いいよ」しなさい。”
頭を叩かれた痛みは残っているし、本当は全然「いいよ」じゃないのですが、仕方がないので「いいよ」していました。
すると不思議に、痛かったことなんてどうでもよくなってしまいました。
「いいよ」と言った瞬間から、心は受け入れるスイッチが入った状態になります。
脳も、終わった案件をいつまでも抱えているほど暇ではないので、さっさと忘れて次の仕事に取り掛かり始めます。
これが、私のたどり着いた忘れる仕組みです。
受け入れることが、私たちに出来ることだったのです。
覚えておきたいことほど、忘れてしまっていませんか?
それは、覚えておきたいことほど、その出来事を肯定しているからです。
忘れられないことは、自分の中で受け入れられていないこと。
例えば、発作の恐怖が忘れられないなら、発作を「いいよ」していないということです。
私も発作は二度とごめんです。
それでも、今後もし起こったなら「いいよ」します。
発作が私のために起こってくれているものだと分かっているからです。
記事はこちらです↓
私の場合、カウンセリングで過去のトラウマについての指摘があったので、随分と時間を遡って過去のことをひたすらに考えている時間がありました。
でもある時、それが過去問ばかりやって、今年のテスト対策をしていない状態であることに気がついたのです。
もう、いい。と、ある日突然思えました。
とことん向き合ったと、自分で納得出来る瞬間が訪れました。
過去はあくまでも今後の対策のためのもの。
経験したことしか対策は出来ないので、その対策も全てではありません。
私が過去に潜り、自分自身について考える時間の中で培ったものは、自分の人生に自分で責任を持つ心でした。
息切れしそうな毎日に、時々愚痴を言いたくもなるけれど、その愚痴は誰に向けるでもなく、自分に向けます。
この世界で色々な体験が出来るのも、体があるおかげ。
もしも、もしもだけれど…
人間が、体もまだ無い、いわゆる「魂」の時に、今世で味わいたい感情を決めて生まれるのだとしたなら、不安になることさえも、自分が味わいたかったこと。
私のことだから、生まれる前に、「不安を味わってみたい」と軽い気持ちで決めたのでしょう。
そんな自分に向けて、「何てことを決めてくれたんだ」と愚痴ります。
愚痴は愚痴を連れてくる性質があるので、誰かに向けての愚痴は引き下がれなくなるのですが、自分に向けての愚痴は、不思議と笑えてくるのです。
自分で決めたのならしょうがない。
全て必要なことじゃないか…。と。
起こったこと全て、これから起こること全て、自分に必要なことなのだと思うと、私は楽になりました。
受け入れると執着が起こらないので、感情にとどまる時間が少なくなり、結果的に早く忘れられるからなのかもしれません。
過去や、今起こっている出来事や、感情に、そうかそうかと頷けた時、すぐに完全に忘れるまではいかなくても、受け入れられる状態になっています。
受け入れるというと、投げやりな感じに聞こえてしまうかもしれません。
でも私は、投げやりでは無いと思っています。
受け入れることは、あきらめることとは違うから。
受け入れて、忘れて、忘れたところにまた新しいものを取り入れて、そうして日々は続いていきます。
次の物語へ