人を変えることは出来ない理由
ココア、入りました ☺︎
ごゆっくりどうぞ。
「人を変えることは出来ない」
この言葉の意味が分かったのは、ここ数年のことです。
なぜ、人は人を変えられないのか?
少し考えてみました。
脳(思考)は1人1つです。
誰かの脳と自分の脳を取り替えることは出来ません。
仮に私の脳を誰かに移植したとしても、
それはやはり、私の脳なのです。
私は1人1つである脳のことを、
1人1冊の本を持っているとして考えました。
ミヒャエル・エンデ作 はてしない物語の中にこんな言葉があります。
「本って、閉じているとき、中で何が起こっているんだろうな?」
__きっと何かがそこで起こっているはずだ。だって開いたとたん、1つの話がすっかりそこにあるのだもの。ぼくのまだ知らない人びとがそこにいる。ありとあらゆる冒険や活躍や闘いがそこにある。 __みんな、どうやってかわからないけど、本の中に入っているんだ。読まなくちゃ、そういうことをいっしょにやれないわけだけど。
誰もがみんな、1人1冊の本を持って生まれ、それぞれが主人公の物語を生きているのなら、
本に著作権があるように、誰かの物語は、その本人に著作権があるので、外からは変えることが出来ないのです。
「人を変えることは出来ない」と言われるのは、このためです。
本は、読むことは出来ても中に入ることは出来ませんよね。
だから、誰かの物語の主人公を代わりにやることは出来ないし、助けることも出来ません。
そして、それは逆も言えます。
私の物語の中に、誰も入ってくることは出来ません。
だから、私は誰にも変えられず、傷つけられることもありません。仮に傷ついたとしたなら、それは私の意思です。
そこには、こんな1文が書かれているはずです。
「私は傷ついてみることにした」と。
すると、不意に、おごそかといいたいほどの気持になった。
主人公は、本を前に、きちんとすわりなおして物語を読み始めます。
かけがえのない1人1人の物語。
家族でも、自分の子どもであっても、愛する人であっても、どんなに親しい仲であっても、
相手の物語の中に入ることは出来ません。
誰かの物語を読むことに、敬意を。
それは、自分の人生も誰かの人生も大切にして生きていくという心のあらわれです。
ただ、書かれているありのままの物語を読みます。
どんなにハラハラしても、どんなに受け入れがたいものだとしても、どんなに助けてあげたいと思っても、相手の完璧な物語に手を加えたりしません。
それは、自分の物語を読む時も同じです。
自分が書いてきた物語の中で、私は精一杯に主人公であるだけ。
そんな風に思うのです。
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