両方の翼
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ごゆっくりどうぞ。
立ち寄っていただいて、ありがとうございます。
祖母が亡くなった時、住職さんは言いました。
「人間は、暗闇から生まれ、暗闇に帰っていくのですよ。亡くなった方は星となり、私たちとは反対のものが見えるようになります」
「私たちが見えるものは、過去。亡くなった方が見えるのは、未来です。昔は、星からの声も聞きながら今を生きていました。最近は、それを知ろうとする方は随分と少なくなりました」
私は、その言葉の意味が分からなくて、ずっと考えていました。
星は、何光年も昔の光。
ということは、星が私たちを見る時、何光年も先の未来を見ていることになります。
私たちが星を見る時、それは、何光年も前の過去を見ていることになります。
そして、過去と未来と今の全てがある地球は、星々と私たちを繋いでいます。
過去の反対は未来。未来の反対は過去。
二元性の地球の中で、ひっくり返らないものは、「今」です。
今以外は反転する。
反転するこの世界で、見えているものは、本当に本当のことなのでしょうか。
嬉しいは、本当に嬉しいことなのか。
悲しいは、本当に悲しいことなのか。
今という時間は、過去と未来を繋ぐ時間です。
今を感じることが出来る地球。
この地球で生きていくとは、相対するものを繋いでいくことなのではないか。
嬉しいだけでなく、悲しいだけでもなく、その両方を繋いで生きていくということなのではないか。
それが、今を生きるということなのではないかと、やっと分かったのです。
たまに聞かれる時がありますよね。
「どっち派?」
犬派? 猫派?
うどん派? そば派?
辛い派? 甘い派?
多数派? 少数派?
大人派? 子ども派?
私たちは、日々何かを選択することを繰り返しながら生きています。
だから、忘れてしまう。
どちらかにしか、答えがないと思ってしまう。
どちらかしかないように思えてしまうことの、間にあるものの価値に気づけたなら。
どちらも含むことが出来たのなら。
鳥が左右両方の翼を使って飛ぶように、私たちも両方を繋いで生きていけたなら。
どこまでも飛んでいける。
動きたいのに動けなく感じる時。
同じ所をぐるぐるしていると感じる時。
思うように飛べなくてうずくまってしまうのは、もしかしたら、片方の翼しか使っていないからかもしれません。
右側に傾けば、その場所でずっと時計回りに旋回を続けます。
左側に傾けば、その場所でずっと反時計回りに旋回を続けます。
翼がどちらかに傾くと、ぐるぐると同じ場所を旋回するようになります。
自分が同じ所を旋回してばかりだと感じる時は、もう片方の翼の方に傾けばいい。
犬に傾いていたなら、猫もかわいがってみる。
うどんに傾いていたなら、そばも食べてみる。(アレルギーがある場合は別ですよ)
多数派に傾いていたなら、少数派の意見も聞いてみる。
大人に傾いていたなら、子どもになって遊んでみる。
反対のものを受け入れてみることが出来れば、左右両方の翼で、まっすぐにどこまでも、力強く飛んでいけます。
右脳に左脳、右手に左手、右目に左目、右耳に左耳…
私たちは、元々相対するものを備えて生きている生き物。
どちらにも価値があることを知っている生き物です。
思い出すだけです。
本当は、もう片方の翼も持っているということを。
右手に喜びを。左手に悲しみを。
右手に未来を。左手に過去を。
そうして、どこまでも。
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感情の海
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ごゆっくりどうぞ。
はじめに
いつも足跡をのこし、励ましていただいてありがとうございます。
ゆっくりの更新を優しく見守っていただけることに、心から感謝をしています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
佐々木イソラ
地球は宇宙の中のほんの1部にすぎないということを、時々忘れてしまいます。
波は、月の引力によって満ちたり、引いたりしていることも。
地球にいる限り、宇宙の影響を受けることは当たり前なのですよね。
星の世界では、感情は水で表されます。
12の星座には、それぞれ担当の分野があるのですが、水は、蟹座、蠍座、魚座が担当をしています。
なんとなく、水っぽいですよね。
体の7割が水である人間は、感情で出来ているといってもいいのかもしれません。
まるで、海を抱えて生きているようですね。
海が月に動かされているように。
人間も、月に動かされていると考えられています。
満月が近くなると、むくみやすかったり、太りやすかったり、イライラしやすかったりするということを知っているイギリスでは、満月には会議をしないと決めているところもあるそうです。
みんなが感情的になって話がまとまらない…そんな時に会議をしても非効率。
イギリスの全ての会社がそうではないだろうけれど、そんなことを考えるイギリスはユニークだなと思うと同時に、自分たちが地球の住人であり、宇宙の住人であることをよく知っているのだなあと感心してしまいます。
感情で出来ている私たち。
嬉し、怒り、悲し、楽し。
ころころとその感情は変わり、たった1日の中だけでも、たくさんの波に出会います。
上手く乗りこなせたり、乗りこなせなかったり、時々自ら溺れてしまったり。
航海をする時は、海図を見て、風を読み、方向を見失わないようにしながら、着実に目的地を目指します。
自然を相手にする航海なので、流されてしまったりすることは許容範囲。
流されたなら軌道修正し、別のルートを見つけ、目的地を目指します。
私たち人間も、時に感情に流されてしまうことがあることは許容範囲。
だれにだって起こること。
それなのに、感情に流されてしまうことは悪いことだと、自分を責めてしまう方がいます。
だから、もし自分を責めてしまう時、思い出して安心してほしいのです。
波は満ちることと、引くことを繰り返します。
ずっと同じ状態であることはありません。
ずっと辛い状態が続くことはありません。
それが自然だからです。
海は命を育みます。
あなたの深い深い海で育まれ、生まれるものたち。
私は、想像します。
誰かを励ますあなたの言葉は、誰かの命を育み。
一生懸命に今日を生きたあなたの姿は、それを見た誰かの命を育んでいる。
命を育み続ける、1人1人の深い海。
たくさん考えて、たくさん悩んで、たくさん泣いたあなたの海は、とても豊かな海です。
あなたの海は、とても愛おしいです。
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考えたことを探す脳
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ごゆっくりどうぞ。
立ち寄っていただいて、本当にありがとうございます。
おなかがすいた時、無意識に食べ物を探していませんか?
のどが渇いた時、無意識に自販機やコンビニを探しませんか?
思ったことの結果を探す。
それが脳の仕組みです。
誰かを嫌いだと思いながら、その誰かの好きなところが思い浮かべられないように。
未来が不安だと思いながら、明るい未来を思い浮かべられないように。
脳は、思ったことに対して、とても忠実に結果を運んできてくれます。
パニック障害の方に関わらず、何か悩みや不安がある時、人は大抵の時間を、悩みと不安について考えることに充ててしまいます。
そうすると何が起こるかというと、やっぱり悩みや不安がよく現れるようになります。
悩むことが悪いということではありません。
私は、悩むこともいいことだと思っています。
今日は悩みたい。という日もあるだろうし、今日はリラックスしたいという日もあると思います。
どちらの自分で過ごすのかは、自分で選べるということですね。
ただ、ずっと恐怖に囚われているのは、とても辛いです。
脳の仕組みを知らなかった時、私は、ただただ恐怖に翻弄されていました。
今はどうしているかというと、漠然とした恐怖が襲ってきたら、「きたね」と受け入れはして、後はひっぱられないように、アニマル動画をひたすらに観ます。
自分がホッとすることをして、まずは恐怖にストップをかけるということですね。
パニック障害の方は、いつも恐怖が頭から離れないという方が多いです。
「恐怖を考えているから恐怖が現れる」という仕組みさえ知っていれば、自ら恐怖を増大させていたんだ!と気づけるので、少しずつ思考を恐怖からずらせるようになっていけます。
例えば朝、「花」を思い浮かべるようにしたとします。
そうすると、夜眠る前、「何だか今日は花をよく見る日だったな」と気づくようになります。
「花」と思ったことをきっかけに、脳が1日中ありとあらゆる花を探して、見せてくれるんです。
自分が何を見たいのか。
それを脳に伝えてあげるだけ。
「あの人のいいところを見つけて」
「仕事の楽しいところを見つけて」
「自分のいいところを見つけて」
そう伝えると、脳は、はりきって見つけ始めます。
脳と仲良くなるコツは、脳が出してきた答えにダメ出しをしないことです。
「あの人にこんないいところがあったよ」
と見つけてくれた脳に、「そんなことないでしょ」と言って否定しないでいてあげることです。
否定すると、脳はがっかりしてはりきってくれなくなり、次に言われた「そんなことないでしょ」の方を探し始めてしまうからです。
そうして今日も、あの人はやっぱり「そんなことないでしょ」な人のままになります。
とても不思議な脳の仕組み。
始めは上手くいかないかもしれません。
人が人と仲良くなる時に、時間をかけてコミュニケーションをとっていくように。
あなたの1番の友達である脳と、時間をかけて仲良くなってみませんか?
あなたの脳は、あなたが話しかけてくれることを待っています。
ねえ、今日は一緒に何を見ようか。
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息る
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立ち寄っていただいてありがとうございます。
「生きる」の語源は「息る」なんだと教えてもらったことがあります。
息をしていることが生きているということ。
息をしているだけで、立派に生きているということですね。
息は無意識に出来るものでもあり、コントロールが出来るものでもあります。
吸って吐いて、吸って吐いて。
生まれてから一度だって、息をすることを休んだことはありません。
それくらい当たり前に出来てしまうこと。
それなのに、時々息の仕方が分からなくなってしまうことがありますよね。
それは、自分を信じられなくなっていたり、自分で全てをコントロールしなくてはいけないと思っていたりする時に起こりがちです。
心も体もガチガチなのですね。
コントロールをしようとすると、苦しくなってしまいます。
これは息だけに限りません。
日々のあらゆる場面でコントロールは起こり、それが自らを苦しくさせてしまうことがあります。
自分が「今、コントロールしようとしているな」と気づける言葉があります。
「どうして」です。
相手が自分の思うような行動をしてくれなくて「どうして」。
急いでいるのに赤信号ばかりで「どうして」。
「どうして」と思わずつぶやいてしまう時、心も体もガチガチにしながら、一生懸命コントロールをしようと頑張っています。
でも、相手は変えられないし、信号を制御は出来ませんよね。
私たちが普段、自分の力でコントロールが出来ないものに、心臓があります。
私たちが何をしていようと、何を思っていようと、怖がっていようと、嬉しがっていようと、淡々と心臓は動き続けます。
トクントクンと音を立てて、まるで、この世界にはコントロール出来るものなどないんだと教えてくれているようです。
同時に、コントロールなんてしなくてもいいんだよとも。
息の仕方が分からなくなった時、胸に手を当ててみましょう。
どんなに苦しくても、心臓が動いているということは、あなたがちゃんと息をしているということです。
大丈夫です。
あなたは何もコントロールしなくても、今、安心して心臓の音を感じているだけでいい。
息をしていることが、あなたが今、とても頑張って生きているという何よりもの証拠です。
トクントクン
心臓は、あなたの1番近くで語りかけています。
ただ、一緒に生きていて。
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生かす悲しい
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立ち寄っていただいてありがとうございます。
中医学では、人間は自然の1部であると考えます。
その基本的な考え方の1つに「陰陽学説」というものがあります。
光と影、昼と夜、男と女、というように、自然界の全てのものは、対立しながらも補完し合っているという考え方です。
光は影があって光になるように、影は光があって影になるように。
どちらが欠けても、どちらも成り立ちません。
これを心に当てはめてみるとどうでしょうか。
嬉しいは悲しいがあって嬉しいになるように、悲しいは嬉しいがあって悲しいになるように。
そう考えると、つい嬉しいことばかりに価値をおきがちだったものが、悲しいことへの価値も見出せるような気がしてきますね。
例えば、悲しいことがあった時、2度と思い出したくもないような出来事があった時、「心に蓋をする」という言葉が使われます。
蓋をされた感情は見えなくなるので、その瞬間は跡形もなく消えてしまったような気がします。
ところが、あくまでも蓋をしただけなので、いつか漏れ出してきてしまいます。
流れの止まった水は、いつか腐ってしまいますね。
喜びを教えてくれる悲しいを、喜びと同じ価値であるはずの悲しいを、蓋をして腐らせたりなんかしたくない。
価値を同じにするということは、天秤のバランスが取れている状態ですね。
バランスが取れれば、喜びも悲しみも仲良くいられる。
どちらかに傾いてしまったと思ったら、真ん中を目指します。
悲しいに傾いてしまったなと感じたら、嬉しいを足します。
悲しいはあるままで、だんだん薄れていって真ん中になったと思えるまで、嬉しいを足していきます。
私は動物と触れ合っていると嬉しくなってくるので、動物に会いに行きます。
あなたを嬉しくさせるものは何でしょう。
歌を歌ったり、楽器を弾いてみたり、映画を観たり、自分が何をすれば嬉しいのかを普段からたくさん知っておくと、真ん中に戻りやすくなります。
自分を喜ばせるスペシャリストになってしまいましょう。
反対に、嬉しいは別に傾いたままでいいじゃないかと思われがちです。
ところが、人間が休まずには生きていけないように、嬉しいに偏ってしまいすぎても不具合が出てくるようになっています。
それぞれの感情は、内臓と密接に関係していると考えられているからです。
嬉しいという感情は心臓に関係しているので、嬉しいが過剰になってしまうと心臓に負担がかかってしまいます。
とはいえ、嬉しいに偏ったからって、無理に自ら悲しいに向かわなくても大丈夫ですよ。
例えば、買ったばかりのアイスを落としたとか、ちょっと悲しいことが勝手に用意されてくるからです。
そんな時は、調節が終わったんだなと思いながら、新しいアイスを買いに行きましょう。
この世界にはたくさんの人がいて、それぞれの人が補い合っています。
悲しいをくれるあの人は、私の心臓を守ってくれる人。
悲しい事は、私の心臓を守ってくれる事。
全部、この世界にとって大切なあなたを生かすために、起こります。
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手放す
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ごゆっくりどうぞ。
立ち寄っていただいてありがとうございます。
この写真を撮った日は、とても風の強い日でした。
花びらが風に舞って、吹雪になりました。
花びらが舞う様子を写真に残そうとする私の前で、小さな男の子が「ゆきだー」と言ってケラケラ笑いながら花びらを追いかけ始めました。
その時
今、この風景を全身で感じている男の子と、今よりも、後でこの風景を感じようとしている私とが、はっきりと対比されたような気がしたのです。
「今を大事にしなさい」
とは、よく聞く言葉ですね。
私は今を大事にしているつもりでいたことに気がつきました。
思い返せば、いつも大抵明日のことを考えているし、なんなら何年も先のことだって考えるし、昨日の失敗を今日も引きずっている日もあります。
今を大事にするということは、今以外を手放さなければいけないということです。
手放すことを考えた時、何故だか分からないけれど、怖いという感情が生まれました。
手放したら無くなるという思い込みがあるからだと、すぐに分かりました。
何かを掴むには、ぎゅっと握らなければいけません。
それは、物というかたちのあるものでも、地位や肩書きや愛といったかたちのないものでも。
私はそれらのものが、しっかり握りしめてさえいれば、掴まえていられるものだと思っていました。
ある朝、窓を開けると、光の屈折で手のひらに虹が出来ました。
思わず掴んでみると、虹はするりと手のひらをすり抜けていってしまうのです。
握るのをやめると、虹は手のひらの中にずっとありました。
なんだ、そうか。
ふと、急に腑に落ちました。
「手放せば、あり続けるんだ」
太陽の光でも、部屋の明かりでも、スマホのライトでもかまいません。
手のひらに当ててみて下さい。
そして、握ってみて下さい。
光は手のひらからするりと抜け出し、握ったところには影だけが出来ていると思います。
人間の原始反射の1つに、把握反射というものがあります。
赤ちゃんの手のひらに指をのせると、ぎゅっと握りしめてくれるものです。
これは、落ちないように自分の身を守る為に起こると言われています。
抱っこしてくれる人は、自分を落としたりしない。その経験の積み重ねを脳が学び、反射が消えていきます。
信頼すれば、手放せる。
人間は、こうして、赤ちゃんの頃からずっとずっと手放し方を学び続ける生き物なのかもしれませんね。
「放す」には、「自由にする」という意味があります。
握りしめなければ、光はずっと手のひらの中にあるように、本当に大切なものは、あなたから離れていくことはありません。
自由になった手で、たくさんの新しいものに触れていきたいですね。
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忘れる時、心はそれを受け入れている
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ごゆっくりどうぞ。
更新がゆっくりですみません。
立ち寄っていただいて、ありがとうございます。
忘れるとは、一体どういうことなのだろう。
その答えを探していた時、「受け入れる」という言葉が浮かびました。
受け入れる時、心はどういった状態なのでしょうか?
子どもの頃、たわいもないことで喧嘩をすることは日常茶飯事でした。
ところが、次の瞬間には仲直りをして、何事も無かったかのように遊んでいた。
その時、心に何が起こっていたのか。
実は、「いいよ」が起こっていたんです。
先生に言われていました。
”「ごめんね」と言われたら「いいよ」しなさい。”
頭を叩かれた痛みは残っているし、本当は全然「いいよ」じゃないのですが、仕方がないので「いいよ」していました。
すると不思議に、痛かったことなんてどうでもよくなってしまいました。
「いいよ」と言った瞬間から、心は受け入れるスイッチが入った状態になります。
脳も、終わった案件をいつまでも抱えているほど暇ではないので、さっさと忘れて次の仕事に取り掛かり始めます。
これが、私のたどり着いた忘れる仕組みです。
受け入れることが、私たちに出来ることだったのです。
覚えておきたいことほど、忘れてしまっていませんか?
それは、覚えておきたいことほど、その出来事を肯定しているからです。
忘れられないことは、自分の中で受け入れられていないこと。
例えば、発作の恐怖が忘れられないなら、発作を「いいよ」していないということです。
私も発作は二度とごめんです。
それでも、今後もし起こったなら「いいよ」します。
発作が私のために起こってくれているものだと分かっているからです。
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私の場合、カウンセリングで過去のトラウマについての指摘があったので、随分と時間を遡って過去のことをひたすらに考えている時間がありました。
でもある時、それが過去問ばかりやって、今年のテスト対策をしていない状態であることに気がついたのです。
もう、いい。と、ある日突然思えました。
とことん向き合ったと、自分で納得出来る瞬間が訪れました。
過去はあくまでも今後の対策のためのもの。
経験したことしか対策は出来ないので、その対策も全てではありません。
私が過去に潜り、自分自身について考える時間の中で培ったものは、自分の人生に自分で責任を持つ心でした。
息切れしそうな毎日に、時々愚痴を言いたくもなるけれど、その愚痴は誰に向けるでもなく、自分に向けます。
この世界で色々な体験が出来るのも、体があるおかげ。
もしも、もしもだけれど…
人間が、体もまだ無い、いわゆる「魂」の時に、今世で味わいたい感情を決めて生まれるのだとしたなら、不安になることさえも、自分が味わいたかったこと。
私のことだから、生まれる前に、「不安を味わってみたい」と軽い気持ちで決めたのでしょう。
そんな自分に向けて、「何てことを決めてくれたんだ」と愚痴ります。
愚痴は愚痴を連れてくる性質があるので、誰かに向けての愚痴は引き下がれなくなるのですが、自分に向けての愚痴は、不思議と笑えてくるのです。
自分で決めたのならしょうがない。
全て必要なことじゃないか…。と。
起こったこと全て、これから起こること全て、自分に必要なことなのだと思うと、私は楽になりました。
受け入れると執着が起こらないので、感情にとどまる時間が少なくなり、結果的に早く忘れられるからなのかもしれません。
過去や、今起こっている出来事や、感情に、そうかそうかと頷けた時、すぐに完全に忘れるまではいかなくても、受け入れられる状態になっています。
受け入れるというと、投げやりな感じに聞こえてしまうかもしれません。
でも私は、投げやりでは無いと思っています。
受け入れることは、あきらめることとは違うから。
受け入れて、忘れて、忘れたところにまた新しいものを取り入れて、そうして日々は続いていきます。
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