本当の自己責任とは
ココア、入りました ☺︎
ごゆっくりどうぞ。
何事にも段階というものがあります。
生まれたばかりの赤ちゃんが、すぐには立てないように。
心にも、癒えていくには段階が必要です。
そこで段階のお話の前に、少し自己責任という言葉についてお話ししたいと思います。
社会では「自己責任」という言葉が多用されます。
途中で投げ出すと「自己責任がない」と眉をひそめる。
自己責任という言葉だけに囚われて、本当の意味の自己責任に気がつかないでいると、心だけが重く縛られていってしまいます。
自己責任ってなんだろう。
自己責任とは、自分の決めたことや行いに自らが責任を負うということですが、
それならば、自己責任がないというのは少しおかしなことに気がつきます。
生まれてから今まで、全ての人は自分の責任で生きていなかったことがありません。
私は私を、私以外の人に生きてもらうわけにはいかないからです。
誰かに代わりに息をしてもらっても、私が生きられないように。
誰かに代わりに食べてもらっても、私が生きられないように。
私は私を生かす自己責任を、生まれた時からずっと果たしています。
失敗から逃げる人を自己責任がないと言うこともありますが、
逃げることさえも自己責任です。
逃げた人は、逃げることによってしか辿り着けなかったものに辿り着くからです。
また逆に、逃げた人の代わりに失敗をカバーすることも自己責任です。
突然降りかかったように見える仕事は、その時は大変であっても後に大きな飛躍に繋がることもあるからです。
そうして全体を見ていくと、逃げた人は、カバーしてくれる人の為にも逃げなくてはいけなかったし、カバーした人は、自分の飛躍の為にも逃げてもらわなくてはいけなかった。
どちらもただ、自分のやるべき責任を遂行しただけ。
自己責任のない人なんて、この世界にはいません。
これが私の前提です。
その上で、心が癒える段階の話に戻ると、
心が癒えるまでの少しの間くらい、何かのせいにしてしまってもいいのではないでしょうか? と、私は思います。
そうでもしないと、自分を保てないという段階があるからです。
私は今でこそ、人生は全て自己責任であるとして生きていますが、
毎日発作の恐怖で怯えているうちは、随分と他の何かのせいにしていました。
自分を切り刻みはしませんでしたが、机を殴って手を痛めつけることはしていました。
手が痛くないと、心がおかしくなりそうでしょうがなかったからです。
私は、心の痛みという訳の分からないものを、打撲という分かりやすい痛みにして、頭の混乱を和らげようとしたのだと思います。
自傷行為は、体の痛みという分かりやすい痛みで、心の痛みから意識をそらす為。
体は次の瞬間から治ろうとし始めるので、中途半端に体の痛みが和らぐと、心も体も痛いという辛い状態になります。
実際に自分を傷つけたり、誰かを傷つけたりすることは勧めないけれど、心の中で思うくらいならいいと思うのです。
心が癒えるまで、何かのせいにして今日を生き延びればいい。
傷が癒える時は全ての人におとづれます。
その時に、本当の意味の自己責任を、力強く生き始めればいい。
私は、転生を信じているので、こう思います。
私は、ずっとずっと私にバトンを渡し続けながら生きてきた。
次の私へ、次の私へ、命を任せてきた。
だから私は、
本当の意味の自己責任とは、私が私に任せた分の命を、私が生ききることだと思います。
起こること全ては、次へ、次へと、私が私に任せてきたもの。
自らが、己に任せたことを責うのです。
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